SSブログ

奈良の地名・竹内街道周辺 [身辺雑記]

大和と河内を結ぶ古道である竹内街道沿いの当麻寺を訪れた。
当麻寺からは大津皇子が葬られている二上山の山頂を望むことができる。

20080427taimadera1.jpg20070617taimaIMG_8891 とうまでらokuinn.jpg
t_20090326taimaIMG_1832 当麻寺.jpg

大津皇子は天武天皇の第一后の長男で、人気、資質、外見、器量の四拍子そろった次期天皇にふさわしい青年だった。天武天皇の第二后で、後の持統天皇に謀殺された悲劇の皇子である。病弱の我が子、草壁皇子可愛さのあまり、甥の大津皇子を妬んだ持統天皇の執念がこの愚行をもたらした。

古代の天皇の血縁はほとんど例外なく、近親結婚によるものである。
古代の天皇は皇族から娶る后(正妻と言い換えてもいい)のほか地方豪族の娘である采女を夫人として多数娶っている。
従って異母兄弟が十数名をくだらないケースは珍しくない。大津皇子の父は天武天皇でその兄は天智天皇である。天智天皇には複数の娘がいたが、全員、弟の天武天皇に嫁いでいる。叔父と姪の結婚だ。

大津皇子の母とその妹で後の持統天皇は血を分けた本当の姉妹である。そそたる姉と利発
あふれる妹の二人姉妹だ。大津皇子と持統天皇は甥と叔母の関係にあたる。大津皇子は血
のつながりの濃い叔母の持統天皇により殺されたことになる。

しかし血族の中での殺し合いは古代では特に珍しいことではなかった。持統天皇が傑出し
た極悪非道の悪女というわけではない。

大津皇子には姉の大伯皇女がいたが、彼女も持統天皇の命により伊勢神宮の斎宮に命ぜら
れたが、この処置はていのいい厄介払いである。
死を免れないことを悟った大津皇子は伊勢に姉を尋ねて、今生の別れをそれとなく伝える。

その直後、大津皇子は訳語田(おさだ)の家で処刑された。ときに大津皇子24歳。そのとき妻の山辺皇女は狂乱し、はだしで外にでて殉死したと「日本書紀」にある。

20060401sensyouji47 hutagamiyama.jpg

遺体はあわただしく、二上山の山頂に埋葬されたが、皇子の身分に相応しない惨めな葬られ方だった。

大津皇子の辞世の句。

百伝(ももつた)ふ 磐余(いわれ)の池に泣く鴨を
        今日(けふ)のみ見てや雲隙(くもがく)りなむ
                    (万葉集 巻三・四一六)

弟の死を知らされた姉が二上山を仰いで呼んだ句。

うつそみの人なる我(あれ)や明日(あす)よりは
        二上山を弟(いろせ)と我(あ)が見む
                    (万葉集 巻二・一六五)

nice!(74)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 74

コメント 4

風の子

竹の内街道を 二上山を経て 当麻寺まで
娘と二人歩きました、 何年も前ですが。
古墳も点在し 万葉の時代に うっとりしてしまう街道でした。
by 風の子 (2010-01-25 10:54) 

ラブ

早く殺されてしまう皇子、結構ありますよね。
皇族に生まれて、幸せなのか、不幸なのか、
考えさせられます。
by ラブ (2010-01-25 13:25) 

侘び助

勉強になります。
by 侘び助 (2010-01-25 14:11) 

ひろたん

学びました。
by ひろたん (2010-01-25 21:27) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。