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年末の火事騒ぎ [身辺雑記]

畑に出かけ、帰りがけにホームセンターとスーパーに寄り道して、帰宅したのがちょうど正午だった。

いつもの道順で家の近くまで来ると、なにやら騒がしい。
家から3ブロック手前に非常線が張られ、その先に消防車が数台止まっている。道路には所狭しと幾本ものホースがヘビのようにのたくっている。
非常線の前に立っている消防隊員によれば、いまだ消火中で車も人もしばらくは通行止めが続くとのこと。火元は通りを挟んで左右どちらかか尋ねると、左側の家という答えが返ってきた。

それって我が家の方角ではないか。
近くに車を止めて、家がすぐ近くだからと話して、非常線を通してもらい、急いで我が家を目指す。すると我が家の2ブロック手前の家からまだ黒煙がもくもくと上がっている。
火元の確認をしてから車にとって返し、一旦大通りにでて、迂回するようにして反対の非常線側にでた。

事情を説明して車ごと非常線と消防車の合間を潜り抜け、なんとか家のガレージに車を入れることが出来た。
あたりは焼けた煙の臭いが充満して、我が家のベランダに火の粉が舞い降りてきていた様子だった。
風向きと風の強さによっては、何軒か類焼してもおかしくないくらいの火の勢いだったと、後から聞いた。

昼日中の火事で幸いだった。
マスコミ報道で後から知ったことだが、火元の家は4人家族で3人が外出中で50歳になる長男が一人家に残っていたらしいが、その長男が焼死体で発見された。

ちょっと考えられない状況なので、警察が消火後3日間現場検証に来ていた。
事故か、事件か、自殺かいまだによくわかっていない。

年も押し迫ったこの時期になんとも痛ましい火事だった。

横暴なお役所仕事 [身辺雑記]

来年2月早々、新年度の栽培野菜の要望を出し合う会議を予定している。

市の公民館の会議室を借りようと、ネット申し込みをしようと、サークル会員IDを入力するとエラーではじかれてしまう。
さっぱり要領を得ないので、わざわざ公民館まで自転車を走らせて、窓口にその旨を尋ねた。
説明によるとサークル会員は一年更新だったことが判明した。エラーの原因は私が更新手続きを怠ったためである。

Q「更新の時期はいつなのですか?」
A「おおよそ毎年5月くらいです」
Q「いまから更新手続きをとることができますか?」
A「ウ~ン、更新の書類数種と申請書を出してもらって、それから審査にかけるので、すぐには承認されないと思います」
Q「2月の会議室の申し込みには間に合いませんか?」
A「難しいでしょうね」
Q「更新の案内はいつ、どのように案内されているのですか?」
A「サークル宛に個別の案内を出しますが、そちらさんは公民館の利用が少ないので、更新案内は出していません」
Q「・・・・・」
A「サークル登録申請が無くても市民なら個人でも会議室は借りられますから、そうなさったら」
Q「わかりました。そうします」

そこで引き下がって家に帰り、再度係りの人とのやり取りを思い出してみた。
サークル活動の状況が低調なので(確かに昨年は1度、会議室を借りただけ)更新の案内を出さなかったわけだ。でも考えてみれば随分、不親切だし、横柄で、横暴ではないか。
それならそうと、そちらは活動が不活発なので新年度のサークル会員として認められません、とかなんとか一言通知しても良かろうに。
メールアドレスも登録しているのだから通知は簡単にできるはずだ。そちらのご都合だけで簡単に切り捨てるなよ。小額だけと市民税も納めているのだから。現役の頃は相当税金を納めていたぞ。

お役所仕事とは全く理解に苦しむところが多々あるものだ。

地元密着・「埼玉都民」でなくなった日 [身辺雑記]

29歳のとき、埼玉県狭山市に移り住み、その10年後現在の所沢市に転居し、埼玉県民になって33年。東京都民だったころよりすでに4年うわまったことになります。
ある統計によると、郷土愛のもっとも希薄な県が埼玉県だそうです。
「埼玉都民」は埼玉に住みながら顔は常に東京に向いている。都内に長年勤務していた私もこれまでは典型的な「埼玉都民」でした。サラリーマンライフの大半を都内で過ごし、深夜寝るために埼玉に戻ってくる人生を歩んできました。

私の周りの友人・知人を見ていると、退職を機に「市民大学」で学びなおし、「俳句」を趣味に加え、ときどき旅行とゴルフを楽しむ人がとても多いように見受けます。かつての退職後の男の趣味ベストワンは残間里恵子が揶揄していたように猫も杓子も「蕎麦打ち」でした。今でもベスト5に入っているのかな?

私は定年を5年後に控え早期退職しましたが、NPO活動を通して地域社会との接点をとることを考えてきました。具体的には地元所沢の農家から450坪の遊休農地を借り受け、会員制の体験農園を2年前に開園したのです。
開園理由は2つあって、一つはNPO活動の基本方針である「農業支援」に基づくもので、都市住民に農業を身近なものに感じてもらう運動の一環として野菜作りをしてもらうこと。
二つ目は特に団塊世代の退職後の居場所つくりを目的にしたもの。

現在農園の会員は21名、その家族を含めると常時、25名前後が週1回の収獲・農作業に集まり、農園ライフを楽しんでもらっています。「協同耕作・均等配分」方式で全員が互いに助け合い、同じ作物をひとつの畑で育てる方式は、会員同士の連帯感、親密感を醸成するにはうってつけの運営方式と自負しています。

会員同士の親睦目的で春秋の収穫祭、開園記念祭、そして新年会と忘年会などを行っています。
昨日はその忘年会を所沢駅前のホテルで行いましたが、互いに打ち解け、二次会は有志でカラオケに繰り出しました。しかし、帰宅したのは10時チョイ過ぎと、実に地元密着型の忘年会でした。
会員の大半は地元所沢ですが、都内から通う会員も3名います。この農園を開いて、私を含め会員は互いに一挙に20数名の地元の人たちと知合うことが出来たわけです。また、農園の周囲の農家とも知合い、いろいろと農園運営に協力を仰いでいます。
忘年会ではいろいろな趣味、特技を持ったことが明らかになりました。女性会員のSさんは今年からボーリングを始め、今ではマイシューズ、13ポンドのマイボールを揃え、スコアは200を超えるとか。
毎年、2月に去年の反省と今年の要望を出し合う栽培検討会議を行い、そのあと新年会になだれ込むというのが通例でしたが、来年は会議の後に、誰でも楽しめる懇親ボーリング大会を行うことにしました。体を動かすことが好きな人たちが集まっているので、大いに盛り上がるだろうと想像しています。

農園を開いて一挙に地元密着が実現でき、「埼玉都民」から完全に解き放なたれた様に思います。

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人を見る目 [身辺雑記]

「人を見る目」のある人はうらやましい。
「人を見る目」のある人から見ると自分はどのように映り、どのように評価を下されているのか、興味があるし、同時にいささか気になる。

多くの人と接する職業の人は人を見る目がおのずと養われていく。特に腹に一物持っている、海千山千集団の政治家をまじかにみている人は特に「人を見る目」が確かでなければならない。
小泉元首相の辣腕秘書官、飯島 勲が「人を見る目」を自身の著書で披瀝している。

人事採用にかかわった人なら思い当たることと思うが、「人を見る」材料はごく限られている。特に個人情報がやかましくなった昨今では、本人以外の家族情報を詮索することがはばかられているので、履歴書の記載と本人の服装、容姿、話し方、ならびにその内容が判断材料のすべてになる。
そこでついつい陥るわなが履歴書に書かれた字のきれいさ、うまさで性格を推測しがちになる。また、履歴書に記載されていることが本当かどうか、わからないことも多い。
転職を何度も繰り返しているのに、著名な企業しか記載していないなど虚偽の記載をしているとも限らない。虚偽記載を見抜くには二次面接のときに「年金記録台帳」のコピーを提示するように仕向けると、簡単に虚偽記載を見抜くことができる。さらに過去の年収も徴収保険料から簡単に逆算できる。
「年金記録台帳」のコピーの提出要求が法的に逸脱しているかどうかはわからないが、なかなかうまい方法ではある。

そして次の方法は賛否はとにかく、なんとも独特なものである。
判断材料は免許証である。免許証には氏名や生年月日、本籍、住所、有効期限等々が書き込んである。さらに交付年月日欄の日付の右に、5桁の数字が並んでいる。実はこの数字を見れば、どんな時間帯に免許の更新に行ったか容易に想像がつくのだ。先頭の数字は免許更新センターの撮影装置の番号で、「15」ならNO.15のカメラで顔写真を撮ったということ。問題は下3桁だ。この数字が「258」なら、NO.15のカメラで258番目に受け付けたということを表しているのだそうだ。
土・日や休業日以外でサラリーマンが免許証を更新する場合、「明日、免許証の更新手続きをしなければいけないので」と 会社や上司に「遅刻の許可」などをもらうことになるはず。
朝一番に更新手続きをして、終わり次第すぐに出社したかどうかはすぐに判断がつく。
仕事に取り組む意欲、姿勢がこの番号でわかってしまうという仕組みだ。
しかし、こんな油断の無い上司のもとでは、部下は気が休まる事が無そうだ。

一度、ご自分の免許証をじっくり見てみることをおすすめします。

出典・『小泉元総理秘書官が明かす 人生「裏ワザ」手帖』(プレジデント社刊)

気になるTV番組 [身辺雑記]

長引く景気低迷の影響で民報各局にはスポンサーがつきづらくなったおかげだろうか、ギャラの安い使い捨てお笑いタレントがどの局、どの番組でも顔を出している。
いい加減飽き飽きしているが、もっと良質なお笑い番組が作れないのだろうか。番組製作者自体の質も落ちているのだろう。金を使わずとも、より良い番組が出来そうなものを。

私が見ている1週間の番組だが、

月曜  NHK20:00~ 家族に乾杯
    テレ朝21:00~ TVタックル
火曜  NHK22:00~ セカンドバージン
    NHK22:55~ 爆笑問題の日本の教養
水曜  無し
木曜  無し
金曜  無し
土曜  NHK教育23:00~カイルXY
日曜  NHK  20:00~大河ドラマ

あらたまって書き出してみると月曜のテレビ朝日のTVタックル以外はすべてNHKになっている。かつてドラマのTBSとバライティーのフジに代表される民放に見るべき番組がないことが一目瞭然だ。特に水、木、金は私にとっていまのところ番組不毛地帯化している。

NHKの大河ドラマと朝8時の連続TV小説は無条件で見ているのではなく、その内容でみたりみなかったりだ。「ゲゲゲの女房」は面白かったが「鉄板」は脚本の出来がよくない。
逆に脚本の面白さで番組が決まるいい例が「セカンドバージン」、ありそうな現実とありそうもない現実の線引きが絶妙に仕組まれて、NHKも変わったな~と思わせる。

上記の番組以外で見逃さないのはサッカーの日本代表の試合中継くらいか。
お笑い番組一辺倒のいまだからこそ提案したいのは、かつてのように「落語」をじっくり聞かせるような「お笑い」番組があってもいいだろう。それほど番組制作にお金はかからないし。

全体的なTV番組の印象だが、作り手側がなんだか萎縮して元気が無いように感じる。
雑誌もそうだが、作り手側が面白がって、ワイワイ活気があればその熱気がおのずと見る側に伝わり、魅力ある番組になる。
また少子高齢傾向が今後ますます進むから、高齢者向けの番組をもっと意識したほうがよろしいのではないでしょうか。番組制作者への提言です。

十数年ぶりの「秩父夜祭」 [身辺雑記]

毎年、きまって12月2日、3日の両日に行われる「秩父夜祭」。

今年の大祭の3日は金曜日だが、2004年の金曜の大祭は215000人の人出を数えた。
翌2005年の大祭は土曜日で315000人と一気に人出は増える。
秩父市の人口が7万人弱だから市民の3~4倍強の人たちがこの初冬の寒空に集まってくる。

「秩父夜祭」見物は十数年ぶりだが、あの時は底冷えを耐え忍ぶために、熱いワンカップを何本も空けた。アルコールが切れると途端に悪寒がするほど寒かった。
しかし、今年の大祭は日中20度をかるく超え、熱燗より冷えたビールのほうがほしくなる。

午後4時ごろ、秩父鉄道の「秩父」駅前について、目と鼻の先の「秩父神社」境内に入ると、ちょうど山車の提灯に灯を入れるところだった。
山車が市内を巡行するまでにはまだ時間がある。そこで事前に地元の人から得ていた情報をもとに秩父駅近くの餃子のうまい店へとむかった。
店は見過ごしてしまうような小さな路地の中ほどにあり、母娘二人で切り盛りする地元の人しか知らない、10人も入れば満席になるような小さな店だ。
焼き餃子と水餃子を肴に、冷えたビールと焼酎のボトルを頼み、最後にノスタルジックな「中華そば」を食べて、勘定は一人2000円と格安だった。
餃子のうまい店というふれこみだったが、むしろ「中華そば」のほうが懐かしい味付けでうまかった。

満腹になったところでちょうど6時半ごろ、再び「秩父神社」へと向かおうとしたが、交通規制と人の多さでどれだけ時間を食うかわからず、「西武秩父」駅方面へと人の流れに身を任せてしまった。

その途中で山車に出会う。
老いも若きも、男も女もそろいの半被を着て山車を目の前で引いている。狭い道路の両側には屋台と見物客でごった返し、見物客のなかをぬうように山車の行列がのろのろと進んでいく。

7時過ぎには漆黒の夜空をキャンバス代わりにくっきりと切り絵のような花火がうちあがる。
昨夜の激しい雨の残りかすのような雨粒がときおり夜空から落ちてくる。ぽかぽか陽気の日中とは打って変わって、強い風も吹いてきた。気温も急激に下がりはじめ、それを潮に「西武秩父」駅に戻り、祭りのクライマック目当てに続々とやってくる見物客を尻目に早々に家路に着いた。

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おでんの季節 [身辺雑記]

朝晩の冷え込みが深まると、俄然食卓での存在感を取り戻すのが「おでん」。

家族もちは大きな鍋にいろんな具材を入れて楽しみ、単身世帯では大鍋でおでんを作るのは不経済なのでコンビニで用を足してしまう。

人によってお好みの具材はほとんど決まっているようで、私が絶対にはずせない具材は二つ。こんにゃくとダイコンだ。この二つはV9時代の巨人の長島と王に該当する。二つのうち一つでもかけたら、それは「おでん」とはいわない。
巨人の5番は随分ころころと替わったが、私にとってのおでんの具材の5番といえば、玉子、ジャガイモ、はんぺん、豆腐、さつま揚げとその時々で替わる。

ガンモ、シラタキ、つみれ、ちくわ、昆布はめったに注文しない。注文したときは飲みすぎて理性を失ったときくらいか。
理性を失っても、絶対に注文しないのがちくわぶ。ちくわぶは東京(あるいは関東)にしかない具材で関西にはないと聞く。関西では「おでん」のことを「関東炊き」という。なんとも情緒のない呼び方で、どうしても「炊き出し」の貧しさを連想してしまう。

ちくわとちくわぶに共通しているのが真ん中に穴が開いているところ。
穴の分だけ材料をケチった感じがしてなんとなく好感が持てない。特にちくわぶは「ちくわ」科に属する亜流のようで独立心がなく、ネチネチとした食感から潔さがないのも嫌いだ。
同じように好感が持てないものに昆布がある。ダシが出切ったものを堂々と売り物にする心根が気に食わない。昆布はサービスで、好きな人に無料で差し上げればよい。

随分、いろいろけちをつけたが「おでん」は大好きだ。
おでんは一家団欒によく似合う。
大鍋を囲んで、ハフハフ、ホフホフ、「ハンヘンガヨフニヘタネ」(はんぺんがよく煮えたね)なんて万葉言葉のような会話が飛び交うのも楽しいものです。

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一の酉 [身辺雑記]

毎年、練馬の大鳥神社に出向いている。

今日11月7日は一の酉、日曜日と暖かい秋晴れが重なり、昼間なのにかなりな人出だ。
商売もしていないのに商売繁盛を祈願するのは何故、と娘に言われて???だが、来年の豊作を祈願してきた。
神社周辺の飲食店に韓国、タイ、ベトナムのアジア料理の店がかなり増えている。練馬駅前の大通りは大手外食チェーン店ばかりが目立ち個人経営の店が少なくなっている。
そのせいか、熊手を買い求める人が少ないような印象を受ける。

今年のような異常気象はもうたくさんだ。来年は春夏秋冬、メリハリのある1年であってほしい。

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T農園のその後 [身辺雑記]

諸般の事情で6年半続いた東久留米のT農業塾が、9月末で突然閉園になった。

畑の現状を見に行ってきたが、収獲残しのサトイモがぽつんと所在無げに植わっている。
慣れ親しんできた物置小屋は人気がなく、近いうちに取り壊される。今年4月に移設したばかりのビニールハウスは物置小屋より先にあっという間に整理されてしまうだろう。

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30名を超える会員にとって今回の閉園通告は寝耳に水だった。まさか、と思いつつやっぱりそうだったのかというのが偽らざる今の心境だ。
作物残滓を埋める穴が掘られて、ローム層の無機質な土の塊があたりに転がっている。
野菜を育てた生きた土は今はもう消えうせ、畑は死んだ土に覆われている。

土地の売買が成立すれば瞬く間のミニ開発でマッチ箱のような家が立ち並び、畑は永久に復活する事はない。

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涼を求めて [身辺雑記]

先月末、関西方面に旅行をしたとき、神戸在住の高校の同級生に神戸市内を案内してもらった。その彼女が所用があって上京した。

いい機会だから「トコトコ農園」を見てみたいというので案内した。
相変わらずの暑さのなか、閑散とした畑見学を早々に切り上げて、青梅に出かけた。

所沢から青梅までは車で子一時間と思いのほか近い。子供が小さいころ、良く家族で青梅駅のはるか下を流れる多摩川の清流で水遊びをした。
簡保の宿の駐車場に車を止め、「釜の淵公園」や市民プールで遊んだことを思い出す。

あの頃と同じように多くの人が川辺でキャンプやバーベキューを楽しむ光景は今も変わっていない。大きなマンションが何棟か建ち、対岸の景観が多少変わったくらいだ。

川辺の遊歩道を歩いていると、清涼な川からのひんやりとした風が心地よい。猛暑を一瞬忘れかけてくれる。


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お盆の東京はガラガラ [身辺雑記]

東京のお盆は1ヶ月前の7月だけど、今日二つの寺に墓参りにいって来た。

最初に訪れたのが私の父が眠る江戸川区「最勝寺」、この寺は江戸時代の五色不動尊のひとつで「目黄不動」を祀っている天台宗の寺。先代の住職はいまから4年前に平泉、「中尊寺」の住職として赴任中、いまは若い息子が跡を継いでいる。
寺内は閑散として、墓参りの人は私の家族をを含めたったの2家族だけ。

次の訪れたのが妻の肉親と親戚が眠る台東区谷中「常在寺」、日蓮宗の寺だ。
何年か前にタレント、中川翔子の父がこの寺に葬られた。同行したわが娘はこちらのほうの墓に関心があり、来ると必ずおまいりしていく。

この時期の都内の道路はがらがらにすいていて、所沢の我が家を8時半にでて、二つの寺を回りきったのが異例の速さで11時半ごろだった。

春秋の彼岸時の混雑は尋常でなく、特に谷中の墓へはなかなかたどり着かない。
地下鉄「千駄木」駅前の三崎坂(さんさきさか)を車で昇っていくのだが、ピクリとも動かない。東京のお彼岸も1ヶ月前倒しになればいいのに、なんて罰当たりなことを真剣に考えてしまう。

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連日の暑さを避けてスタバーに避難 [身辺雑記]

夜中の11時をすぎてもまだ30度を下回らない日が続く。

あまりの暑さに耐え切れず、リビングの照明器具をとうとう取り替えた。
明るさは以前の半分近くに落とし、かつファンつきの器具に取り替えた。

東南アジアでよく見かける天井吊り下げ式のファンである。部屋全体の空気をかき回すので冷房効率はよさそうだ。扇風機のようにヒステリックに風を送り込まない代わりに、室内に微風を巻き起こす。

昼日中からクーラーをつけっぱなしに出来ないので、とうとう文庫本を持って、近所のスタバーに避難する。平日の2時過ぎ、店内はすいているので席は自由にチョイスできる。

ソファーを選んで、ゆったりしながら文庫本を読む。静かで、涼しいので読書には最適だ。
暑さが続けば、このライフスタイルが定着しそうな予感がする。

身辺雑記 [身辺雑記]

隔月に理事会を開いているSGT(埼玉グリーンツーリズム協議会)に午後から出席。
今日は欠席の理事が多く、イマイチ盛り上がらなかった。会議後、お茶を飲んで夕方6時に人と待ち合わせている田町駅に向かう。

この時期としてはシャツの上に薄手のトックリ(この言い方、年がばれてしまう)を着込み、さらにジャケットを羽織るも身震いするほど寒さがきつい。
田町行きの用事は毎年11月初旬に行っている、大学のゼミ会会場の下見をするためだ。

東門で6時の待ち合わせの10分前についてしまったが、あまりの寒さに校内の予定会場に直行し、携帯から場所の変更を連絡してしまった。それほど異様な寒さだ。

最後に三田キャンパスに来たのは何時頃だったろう。随分雰囲気が変わった。正門の南校舎は建て替え中で、2年後の完成を目指す。巨大なクレーンがさほど広くないキャンパスを貫くようにたっている。
会場は教職員専用のレストラン(パレスホテルが運営)を拝借することになり、打ち合わせと下見を兼ねたものだ。料理、酒込みで6千円が目安というからパレスホテルの利用としては割安だ。
<写真はネットから拝借したもの>
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早々に打ち合わせを終えて、仲通の飲み屋を物色して店に飛び込んだ。
いつもなら「とりあえずビール」を注文するのだが、あまりの寒さにハイネケンの小瓶2本で喉を潤しごまかす。後は「中中」という麦焼酎をボトルでとってお湯割りにして体を温めた。私としては「明るい農村」を注文したかったが、「中中」もなかなかうまかった。

酔うほどに出た話題が混迷する政局だ。
4人それぞれ私見を披露しあったが、一人は意外に民主党は惨敗しないという意見。私は小泉純一郎が最後のリーダーだったという意見だが、経済専門家のA女史は小泉が本当に行革にリーダーシップを発揮して行ったかどうか疑問という点で、同意しなかった。

「変革」を合言葉に民主党を選んだが、鳩ちゃんにはがっかりさせられしっぱなしだ。
これでは政権放り出しの安部、福田と同じ穴の狢になるのではないかと危惧している。期待が大きかった分、落胆も大きく、人気は落ちるところまで落ちた感がする。

地方自治体の長が動き出した。国政の体たらくを見て、維新の獅子となって立ち上げれば面白くなりそうだ。外様藩が幕藩体制を見限って行動を起こしたように、平成維新が起きるかどうか。

新党ブームで「立ち枯れ日本」と間違えた渡辺喜美には久々に大声を出して笑ってしまった。亀井国民新党の抜かりない立ち回りを見て、我も我もと新党立ち上げをもくろんでいるとすると、「柳の下のドジョウ二匹」とは行くまい。
二大政党制の時代と言われたが、自民、民主の体たらくを見ていると、参議院では過渡期的傾向かもしれないが当面は小党分立が規定路線のようになりそうな予感がする。

ある研究会のオフ会・宴会風景 [身辺雑記]

大学のゼミの後輩が主催する「シルクロード研究会」が不定期で行っている、報告会兼オフ会・酒盛りが新大久保のモンゴル料理屋で行われた。

この店のオーナーはまがいもない正真正銘のモンゴル人で、九州大学大学院卒業後、日本人女性と結婚して日本に帰化した人である。奥さんは福岡でモンゴル料理店を営み、ご主人はなぜか東京に単身上京し、ここ新大久保で店を開いている。

モンゴルといえば羊肉、酒は馬乳酒。どちらも日本人にはなじみが薄い。
店内はパオという名の遊牧民テントを模して作られ、靴を脱ぎ客は全員モンゴルの民族衣装と帽子を被らなければならない。ガウンのような服の着心地はゆったりして、かつ暖かい。同じアジア人なので皆、似合っている。

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この空間にいるとモンゴルにいるような気分になる。陽気なご主人がモンゴルの演歌を疲労してくれる。アカペラ、マイクなしでも鼓膜にビンビン響く声量で、浪々と歌い上げる。歌詞は全く理解不能だが、地平線が360度広がる大平原ではこれだけの声量がないと、聞こえないのかもしれない。

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羊肉の一塊がドンとでてくる。骨から肉をそぎ落とし、岩塩もしくは辛いタレをつけて食べたが、柔らかいし適度に脂肪もあってうまい。日本風なワンタンに似た麺、塩加減がちょうど良いチャーハン、辛めのサラダなど日本人の味覚にあう。

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お酒の度数は概して高い。モンゴルビールを飲んだ後、馬乳酒、ウォッカを立て続けに飲んでかなり酔いがまわる。家にたどり着いたのが12時過ぎ、一風呂浴びて寝入ったら、8時過ぎになってやっと目が覚めた。

気づいたらブログを始めて一年経過してました [身辺雑記]

このブログを立ち上げたのが2009年3月10日だった。

体験農園「トコトコ農園」の開園に歩調をあわせ、農園の広報ブログとして記事をアップし始めたが、気がつくと1年をすでに経過していた。

私は「○○記念日」とか「○周年」とか、ほとんど頓着しないたちである。その点、女性は過去の記憶をしっかり日付で覚えているのにいつも感心している。
どこかで聞いた話だが、多くの女性が男性に比べて地図を読むのが苦手なのは、脳の構造的な違いが原因らしい。

ということであれば男が、というより私がと言ったほうが正確かもしれないが、何タラ記念日に頓着しないのは生物的な特徴なのかもしれない。誰かこのことを証明してくれる人がいれば実にありがたい。

いまから30数年前の秋、10月か11月かいまとなっては完璧に忘れたが、私たち夫婦は結婚式を上げた。1年後の結婚記念日当日、私は友人4人と徹夜マージャンをして記念日をすっぽかした。

翌日の午後眠い目をして家に帰ったら、妻は地球上でただ一人、全世界の不幸を背負ったような悲しい顔をしていた。一応、ケーキの箱を手にして帰ったのだが、唾棄するような目つきでケーキの箱を一瞥し、無言の抗議がそれから何日か続いた。

ここまで読んだ人は私がなんと女心を踏みにじる、無頼な男と思われるかもしれない。しかし私は坂口安吾や太宰治のような破滅型の芸術家ではない。
結婚記念日に徹マンをした理由は結婚式をまじかに控えた友人の父親が急死し、その父親が無類のマージャン好きだったため、友人とその婚約者、そして友人の母親に懇願されて、弔いマージャンをしてほしいということに応えたためだ。
事情は当然妻に電話で話した。友人は妻とも顔見知りだ。

「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たいこの世界」に住んでいた私は一もにも二もなく、義理を選択した。この結婚話にはまた一つ事件があって、式の10日前に今度は婚約者の父親が急死した。
両家の父親の遺影を前に、予定通り式をあげることになったが、なんともTVドラマ的な結婚式で、今でも鮮明に記憶がよみがえる。

その一方で私たちの結婚記念日は、少なくとも私は負い目もあって、なおかつあのときのなんともいえない悲しげな妻の目を思い出すことを避けて、記憶から記念日を追い出してしまい、今となっては月までもすっかり忘れてしまった。そんなことでとうとう「結婚記念日」に関する話題は夫婦の間ではタブーとなり、封印されて今日に至っている。

ということで、ブログの開設日もすっかり忘れ、1ヶ月近くも遅れて思い出しながらこの記事を書いている。
ここのところ忙しさを理由に、訪問していただいた方々へなかなか返礼のブログ訪問もままならず、大変失礼をしている。
取り留めのない当ブログに懲りずに訪問していただき、その上暖かいコメントまでお寄せくださり、感謝の言葉もありません。

便利、それとも不便、居酒屋チェーン! [身辺雑記]

週三日、畑にでて地元密着型の日常をすごしていると都心に出る機会はめっきり少なくなった。外で酒を飲む機会も当然少なくなり、いたって健康的な生活をしている。

先日、友人の墓参りのために久方ぶりで都内に出かけた。その帰り道、まだ4時前の陽が高い時間帯だが、ちょいと一杯やることにした。この時間で酒を飲めるところといえば、やはり蕎麦屋しかない。

新小岩駅前に程近い場所にこぎれいな蕎麦屋を目ざとく見つけ、4人で入った。
まだ客はわれわれしかいない。ビールで喉を湿らせ、冷酒を注文する。蕎麦屋の酒の肴といえば定番のいたわさ、玉子焼きそして焼き海苔である。
これだけでは寂しいので、焼き鳥と天ぷらの盛り合わせも頼んだ。冷酒を8本、最後に蒸篭を食べて、〆て一人3千円強、酒も料理も、もちろん肝心の蕎麦もうまかった。

蕎麦屋をでたのがまだ6時前、駅前の飲食店チェーンがひしめき合う雑居ビルに「全品270円」とうたった店に飛び込む。「東方見聞録」というチェーン店だ。
案内された席に着くと、小さめのPC画面大の液晶タッチパネルが置いてあり、これを使ってあらゆる注文をするシステムになっている。

なにを注文するか、迷ったときは画面左上の「とりあえず」を触れればいい。
そこには「とりあえず」の定番メニューが並んでいる。ビールに枝豆に指を触れて注文数を入力し、確認画面を触れると総金額と一人分の金額も同時に表示される。
なんとビールも270円である。冷酒も270円で先ほどの蕎麦屋で注文した冷酒の3分の1である。驚きの安さだ。
ただし、蕎麦屋の酒と違ったのはやはり水ぽかった点だ。いたし方あるまい。

最初に1本注文した冷酒にはお猪口が一つしか運ばれてこなかった。お猪口を人数分追加したいのだけれど、酔った頭ではどうすればいいのかわからない。

必死の画面を見ると画面左上の「とりあえず」の対角線上の右下に「その他」がある。そこを触れると「猪口」の文字が出てきた。3と入力して確認画面を触れると、店員がまもなく猪口を持ってきた。

なんと便利な世の中になったものだ。注文と確認操作を繰り返すたびに総金額と一人分の金額が表示される。なかなか一人千円に達しない。
注文履歴が確認のたびに表示され、「猪口」も表示されている。「猪口」の金額欄は「0」と表示されている。当たり前か。

しかし、昨年暮れ同様の居酒屋チェーン店で2時間飲み放題の忘年会に参加したが、30分前がアルコール以外のオーダーストップと店員に告げられた。それから意地汚く焼酎のボトルを注文したが「ミネラルウウォーター」は注文に応じられないという。
「ミネラルウウォーター」はアルコール以外のオーダーだから、というのが店側の言い分である。
「ミネラルウウォーター」でなくても水道水でもかまわないと、食い下がったが、それでも断られた。

便利なようで機械の様に無機質な店員の対応には不便さを感じたことを思い出した。

寒い春、雨そしてまた雨 [身辺雑記]

二日続けての寒い雨。
畑にも出られずたまった事務処理を片付けても、なお時間が余る。

途切れ途切れに読み進む本を引っ張り出し、腰を落ちつけて読書再開。その本の名は「人間臨終図巻 1」(山田風太郎著・徳間書店刊)マレーシアに移住した友人に勧められ、帰国してから買い求めたものだ。

副題は十五歳―五十五歳で死んだ人々、古今東西、歴史的著名人から犯罪人までの臨終を簡潔にまとめてある。
死因で最も多いのが肺結核。ほんの数十年前まで肺病は不治の病だったことが良くわかる。
それと実に若くして死んだ人の多いこと。そして意外な交友関係の発見が面白い。
作家、絵描き、歌人といった芸術家たちの生き様と死に様の苛烈さには心臓が締め付けられる。

21日は午前中から出かけて、妻方の墓参りをする。谷中の「朝倉彫塑館」のちょいと先の寺だが、花と線香を手向けて日暮里駅に戻る途中で谷中銀座商店街へと坂を降りた。
なんてことも無い肉屋の店先で売られているコロッケに人が並んでいる。訪れたタレントたちの色紙をこれ見よがしに並べて客寄せの宣伝に利用している。

昼時だが今度は私のほうの番なので、総武線の平井駅へと向かう。この寺は江戸五不動尊の一つ「目黄不動尊」をまつる寺で私の父が眠っている。
お彼岸の割には人手が例年より少なめだ。早朝まで吹き荒れた突風の後始末に追われ、墓参りは明日へと持ち越した人が多かったのだろうか。

そして午後三時からは59歳で世を去った高校の親友Mの墓参りである。級友3人と総武線、新小岩駅で待ちあわせた。目指す寺は駅から20分近く歩かねばならない。
水族館勤務だったMは「ペンギン館」新設の仕事を残してがんで倒れた。墓の前にペンギンの可愛い石像が置かれている。大の酒好きだったMの墓前に日本酒を置いてきた。

そういえばわれわれが高校生だったとき、教師をしていたMの父親も59歳の若さで死んでいた。Mの父親も大酒のみの人だった。
今頃父子揃って1升ビンを枕に酔いつぶれているかもしれない。

ブログの書き込み中断します! [身辺雑記]

2月18日から2月23日まで、マレーシアにいくことになりました。

寒波に覆われた日本から、真夏のクワラルンプールへと向かいます。冬服と夏服のギアチェンジのタイミングがイマイチわかりません。
お笑い芸人のように夏服を何枚も重ね着して、機内で脱げばいいんでしょうか?
でも帰りはどうすればいいのでしょう。
この深刻な問題解決法は帰ってからレポートすることにします。

ところで旅行目的がなんなのか、気になるでしょう。
気にならないかもしれませんが、ま~聞いてください。

高校のときの同級生A君が退職後、マレーシアに移住してしまいました。
移住した彼は高校の同級生のなかで、もっとも出世した男です。某新聞社の役員の地位をあっさりケッポり、マレーシアに移住してしまったのです。移住の話は約一年以上前に直接彼から打ち明けられました。
二人のお子さんは成人して手が離れたので、奥さんとともにかの地に行くのだろうと思っていたのですが、移住が現実に近づく頃に、実は単身で移住することになりました。

はじめに私が心配したのは食の問題です。多少会話が通じない、治安が悪いという点はある程度なれればナントカなるものです。しかし食は根本的なところで、人によってはなかなかなれるのに骨が折れます。

しかし彼はマレーシアに1年半ほど勤務経験もあり、三食外食で済ませていたから、何の支障もないと言い切っていました。
昨夏に移住して3ヵ月後に一旦帰国したところで、同級生8名ぐらいが集まり、マレーシア生活話を聞く機会を設けました。

いろいろ興味深い話を聞くことが出来ましたが、なんと、というかやはりというか、食べ物に大いに悩まされるという意外な話が彼の口から打ち明けられました。

現地食がだんだん口にあわなくなり、日本の味が恋しくてしょうがなくなったというのです。
それまで意地になって日本食を避けていたらしいのですが、あるときゴルフ場のレストランで「親子丼」の懐かしい文字が目に飛び込んできた途端、ついに禁を破って「親子丼」を頼んでしまったのです。

運ばれてきた丼に箸をつけ,一口食べた瞬間、大粒の涙がぽろぽろ流れ落ち、その後は思わずメニューで顔を隠しながら食べ続けたというではありませんか。
直後、彼はスパーに出かけ炊飯器を買い、とうとう自炊をし始めたのです。

あれからすでに4ヶ月あまりの時間がたち、マレーシアで彼はどんな生活をしているのか、同級生3人で確かめにいくというのが今回の旅の目的でもあります。

帰国後、写真を交えて、マレーシア移住日記を何回かに分けて書く予定です。
団塊世代が退職後の選択肢として海外移住するケースも増えていますが、その実例として参考になればと考えています。

義理チョコ考 [身辺雑記]

義理チョコも 
義理を欠いてはや6年

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退職するまでは、こんな爺さんでも義理チョコの5つや6つはゲットしていたが、退職後義理チョコとは全く無縁になった。

昨晩、東アジア杯の日韓戦を国立競技場で見てきた。私を含めいつものサッカー観戦メンバー4人に加え、その妻、義父、友人夫妻、など6名も観戦に加わり随分と賑やかだった。
それに反して試合内容と結果は随分お寒いものだった。

試合終了10分前にはわれわれメンバー全員が抗議の意思表示で帰ってしまった。
ワールドカップイヤーとしてはこれまでにない、盛り上がりが少ない年である。
岡ちゃん、大丈夫かな。心底心配になってくるほど、代表に精彩がない。
ベスト4など、夢のまた夢である。予選で1点取れるかどうか、フランスワールドカップの頃に逆戻りだ。

観戦メンバーの中に息子の嫁も来た。今日は2月14日だった。チョコレートを嫁からもらってうかつにも気がついた。
いやはや、ぼけたもんだ。

最近、甘いものが好きになり、夕飯のあとでチョコのような甘い菓子を食べていると、鬼嫁に必ずいやみを言われる。このチョコはそっとマイルームで食べてしまおう。

弁当の思い出 [身辺雑記]

出版社に勤務する知人から「すごい弁当力」(佐藤剛史著・五月書房刊)という書籍が贈られてきた。それによれば2009年時点で小学校・大学を含め全国500校で「弁当の日」が設けられている。
世の中不況で外食が減り、家ご飯が増加中だとか。サラリーマンは安いコンビニ弁当で昼食を済ませ、生活防衛に汲々としている。

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コンビニ弁当も悪くはないが、フライのような油系のおかずが続くと、さすがに「もういいや」となる。味もさることながら、作り手の見えないコンビニ弁当には肉親のあったかさを感じることが出来ない。手作り弁当には母や、妻のぬくもりがつまっていて、食欲+愛情を満たしてくれる。

団塊世代の小学生時代は学校給食とともに歩んできたから、あまり弁当の記憶はない。思い出としての弁当は遠足と運動会に強く結びついている。海苔巻き、稲荷、そしてゆで卵が定番でそれ以外の食べ物はあまり思い出すことが出来ない。遠足や運動会は母が付き添い、あるいは応援に来ていて、一緒に弁当を食べたので強く印象に残っている。

中学時代は学校給食がなかったので毎日弁当を食べていたはずだが、なぜか記憶からストンと抜け落ちている。なぜなのだろう、不思議だ。
確か中学には校内に小さなスペースの売店があって、文房具と一緒に昼どきはパンが売られていたことを良く覚えている。弁当より菓子パンのほうが印象深かったのか?それも理由の一つかもしれないが、おそらくそれだけではない。

中学生時代、特に男は反抗期と親離れの時期である。小学校の遠足や運動会の弁当は母親と重なるが、中学時代は親が来ることがなかった。毎日弁当を食べていたはずなのにその記憶がほとんど皆無なのは弁当と母親が結びつかないからか。

コンビニ弁当は利便性と経済性だけで、作り手と全く結びつかない。母親のぬくもりや、結びつきとは無縁の弁当だけに、記憶に残ることはないだろう。残るとすれば逆の負の記憶だ。

反抗期も穏やかに落ち着いた高校時代は反対に弁当の記憶がもっとも鮮明に残っている。弁当の中身もしっかり覚えている。高校受験を潜り抜け、ほっとしていたこともあり、母親を気遣う余裕も出てきたのだろう。
大概毎日、早弁をしていた。2時間目の終わりにはきれいに弁当を平らげていた。

我が青春は弁当とともにあり、そんな印象を強く持つ。その母も今年3月で93歳。頭もしっかりしている。こちらが一足早くぼけそうなくらいだ。

奈良の地名・竹内街道周辺 [身辺雑記]

大和と河内を結ぶ古道である竹内街道沿いの当麻寺を訪れた。
当麻寺からは大津皇子が葬られている二上山の山頂を望むことができる。

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t_20090326taimaIMG_1832 当麻寺.jpg

大津皇子は天武天皇の第一后の長男で、人気、資質、外見、器量の四拍子そろった次期天皇にふさわしい青年だった。天武天皇の第二后で、後の持統天皇に謀殺された悲劇の皇子である。病弱の我が子、草壁皇子可愛さのあまり、甥の大津皇子を妬んだ持統天皇の執念がこの愚行をもたらした。

古代の天皇の血縁はほとんど例外なく、近親結婚によるものである。
古代の天皇は皇族から娶る后(正妻と言い換えてもいい)のほか地方豪族の娘である采女を夫人として多数娶っている。
従って異母兄弟が十数名をくだらないケースは珍しくない。大津皇子の父は天武天皇でその兄は天智天皇である。天智天皇には複数の娘がいたが、全員、弟の天武天皇に嫁いでいる。叔父と姪の結婚だ。

大津皇子の母とその妹で後の持統天皇は血を分けた本当の姉妹である。そそたる姉と利発
あふれる妹の二人姉妹だ。大津皇子と持統天皇は甥と叔母の関係にあたる。大津皇子は血
のつながりの濃い叔母の持統天皇により殺されたことになる。

しかし血族の中での殺し合いは古代では特に珍しいことではなかった。持統天皇が傑出し
た極悪非道の悪女というわけではない。

大津皇子には姉の大伯皇女がいたが、彼女も持統天皇の命により伊勢神宮の斎宮に命ぜら
れたが、この処置はていのいい厄介払いである。
死を免れないことを悟った大津皇子は伊勢に姉を尋ねて、今生の別れをそれとなく伝える。

その直後、大津皇子は訳語田(おさだ)の家で処刑された。ときに大津皇子24歳。そのとき妻の山辺皇女は狂乱し、はだしで外にでて殉死したと「日本書紀」にある。

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遺体はあわただしく、二上山の山頂に埋葬されたが、皇子の身分に相応しない惨めな葬られ方だった。

大津皇子の辞世の句。

百伝(ももつた)ふ 磐余(いわれ)の池に泣く鴨を
        今日(けふ)のみ見てや雲隙(くもがく)りなむ
                    (万葉集 巻三・四一六)

弟の死を知らされた姉が二上山を仰いで呼んだ句。

うつそみの人なる我(あれ)や明日(あす)よりは
        二上山を弟(いろせ)と我(あ)が見む
                    (万葉集 巻二・一六五)

奈良の地名・斑鳩周辺 [身辺雑記]

斑鳩といえば法隆寺、法隆寺といえば聖徳太子。

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聖徳太子の両親はともに蘇我氏の血族で、太子は仏教を争点にした蘇我馬子と物部守屋の権力争いに、馬子の片腕として強くかかわった。
圧倒的に軍事力で勝る物部軍に蘇我軍は苦戦を強いられるが、太子の機転で反攻に転じ、物部軍を打ち破った。太子の戦功を記念すべく、建てられたのが大阪の「四天王寺」である。

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その後の太子は蘇我系天皇である推古天皇を補佐する重要な役目を担うが、馬子との関係がしっくり行かなくなったのか、斑鳩に拠点を移してしまう。
飛鳥と斑鳩は大和盆地を挟んでちょうど対角線上にある。唐突とも見える太子の斑鳩移転の真相ははっきりしない。馬子との不仲説、中国との外交政策上、大阪湾に近い斑鳩を選択したという説もある。

いずれにしても隋との外交関係を結ぶには大阪湾~瀬戸内航路を利用しなければならない。それには飛鳥では如何せん不便である。しかし斑鳩からは竜田川を下れば大阪湾には至極簡単に行き着ける。古代の大阪湾は内陸に大きく食い込むように広がっており、現在の大阪市街の大半は海だった。竜田川は渓谷が深く蛇行して、関西本線が竜田川と交錯しながら走っている。急流を船で下れば思いのほか、斑鳩と瀬戸内海の距離は意外に近い。

20081129_448483 竜田川.jpg
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聖徳太子は南河内太子町の叡福寺に母と妻とともに葬られている。家族を大切にした太子らしい葬られ方だ。太子と難波との結びつきには、特別なものがありそうだ。近くには父、用明天皇陵、ならびに推古天皇稜がまとまってある。


奈良の地名・飛鳥周辺 [身辺雑記]

山辺の道は徒歩で、飛鳥は近鉄「橿原神宮」駅前でレンタサイクルを借りてまわった。

自転車は徒歩よりはるかに行動半径が大きく、あれも見たい、これも見たいで、ついつい欲張りすぎてしまいがちになる。
見たいところを絞りながら、さらにそれぞれの位置関係を大雑把に把握したい。それには一望できる高い場所があれば一番よい。現代なら東京タワーのような高層建造物があるが、古代ではそうも行かない。せいぜい木で組んだ櫓くらいしかない。

s20080330asuka026 あまかし眼科.jpg

ところが飛鳥には「甘樫丘」という絶好の小高い丘がある。
「甘樫丘」の頂上には馬子、蝦夷、入鹿と3代つづいた蘇我一族の館があった。
蘇我氏は天皇家と次々と姻戚関係を結び、蘇我系の天皇を意のままにコントロールしていた。馬子は反抗的な現役の「崇峻天皇」を暗殺し、代わりに初代女性天皇である「推古天皇」を即位させた。ゆえにこの時代を「蘇我王朝」と位置づける歴史家もいる。

小高い「甘樫丘」から大和盆地を見下ろすことが出来る。
北には「畝傍山」、「耳成山」、「天香久山」の大和三山を望み、丘の東のふもとには「飛鳥坐神社」、「飛鳥寺」がある。
「飛鳥寺」の裏手には「飛鳥浄御原宮」跡が広がる。ここは中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が時の大権力者、蘇我入鹿を暗殺した場所である。
20070929asuka173 飛鳥寺.jpg
20070929asuka140 橘寺.jpg

「飛鳥寺」から南に下ると聖徳太子が誕生した「橘寺」にでる。
「橘寺」を通り越して西に進むと巨石文化を代表する「亀石」、「鬼の俎」、「鬼の雪隠」などがある。

ちょうど「甘樫丘」を中心にして時計回りに自転車を走らせたことになる。
入鹿を殺された父、蝦夷は息子暗殺の知らせを受けると、「甘樫丘」に建つ館に火をつけ自刃した。この一連の事件をさして「大化の改新」という。

自転車を走らせている間、当時はコンビニもなく、「橿原神宮」駅前の自販機でペットボトルを2本買ってきたのが大正解だった。

帰路は「橿原神宮」まで戻る体力もなく、一駅手前の「岡寺」駅にでて、自転車を返した。

奈良の地名 [身辺雑記]

大阪単身赴任時代の唯一の楽しみは週末の日帰り旅行だった。

古代史好きの私にとって、関西圏には格好の散策場所が山ほどある。
週末の二日間はまるまる自由に使える時間だった。そこで早朝からよく出かけたのが奈良である。
奈良は古代史愛好家にとっては垂涎の的である。奈良が京都と異なるところは、良くも悪くも観光化されていない点だろう。名所旧跡でも訪れる人が京都に比べ少ないところがいい。しかし、その分交通の便が恐ろしく悪い。
京都が新幹線、JR在来線、阪急、京阪、京福鉄道、そして市内バス、タクシーと観光客には至れり尽くせりだが、奈良はJRと近鉄の二線しかない。しかも両線ともかなりなローカル線だ。

奈良の奥座敷、吉野や長谷寺・室生寺周辺などの観光は出来れば1泊したい。
奈良はどこも印象深かったが、特に山辺の道を天理から桜井まで徒歩で南下したのが忘れられない。右手に大和盆地を見下ろし、歩き疲れると秋の弱まった日差しを浴びながら、ごろんと草に横たわるのが最高だった。空はあくまで高く、青い。前方後円墳越しに眺める大和盆地。そこに繰り広げられた古代の歴史を反芻していると、時間のたつのを忘れてしまいそうになる。

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出発地点の天理市内で最初に訪れたのがあの物部氏の氏寺である「石上神宮」、山辺の道はJR桜井線にほぼ並行しているが、天理駅から三つ目の駅が「巻向」駅、駅の目の前に広がる畑全体が「纏向遺跡」、駅近くには卑弥呼の墓とみなされている「箸墓古墳」、日本書紀にはこの墓に葬られたのは「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」とあるが、早口言葉のようで舌がもつれてしまいそうだ。

20080105yamanobe7.jpgt_20090923IMG_3234.jpg20091129yamanobe56 箸墓.jpg20091114makimukuIMG_591 まきむく.jpg

さらに南下していくと「大神神社」にたどり着く。日本で最も古い神社で三輪山をご神体にした神社だ。ここで家内安全を祈願してもらったが、さすが格式高い神社で、お払いを受ける際、雅楽隊が生演奏して、それにあわせて3人の巫女が舞を踊るという本格的なものだった。次に別室に案内されて、お払いの札を恭しく受け取った。

以後、「大神神社」には2度訪れ、ご神体の三輪山にも登らせてもらった。
「大神神社」から終着地の「桜井駅」は程近いが、その間に古代の市場で有名な「海石榴市」跡がある。

20071028yamanobe058 大神神社.jpg20071028yamanobe059 大神.jpg


奈良は「明日香」、「斑鳩」、「葛城」方面にも足を伸ばした。そこでもいくつか難解な読み方をする地名、史跡名に出会うことになる。

大阪の地名 [身辺雑記]

私が愛読させてもらっているブログの中に大阪在住の方のものが目に付く。

そのわけは、私自身大阪に2年弱、単身赴任で暮らしていた関係で、懐かしい場所、地名が出てくるとなんとなく惹かれてしまうからだ。

仕事の合間に大阪の人が関東の地名を読みずらそうにしていたことがなぜか新鮮で面白かった。
「保土ヶ谷」を読めない女性社員がいた。「日暮里」を「ひぐれさと」と連呼していたおっさんがいた。
土地の名前は基本的に読み方が難しいのだけれど、大阪を含む関西圏は歴史が関東より古い分、より難解に感じる。

大阪市内の地名でもっとも印象に残っていたのが「放出」。

P1137357 放出.jpg

またよび方は知っていても、実際に漢字で表記されたものを見て、「う~ん」と思わずうなってしまったこともしばしばだった。
「十三」、「靱本町」、「立売堀」、「戎橋」、「天満」、「天下茶屋」などなど。これらの地名など、地元の人にとっては「なぜこれが、難しいの?」と思われるだろう。

新大阪駅から市内に向かうとき「西中島南方」の駅を通り過ぎる。「西か南かはっきりしろ」といいたくなる。
大阪駅の近くに「兎我野町」があり、製薬メーカーが集中しているのが「道修町」、大阪の秋葉原が「日本橋」、アフターファイブ、飲みに出かけた「戎橋」、帰宅は阪急宝塚線を利用していたので「雲雀ヶ丘花屋敷」行きの電車に乗り「十三」を通過して「岡町」で下車していた。

さてここまで出てきた地名をどのくらい正確に読めるか、自己採点してみてください。

田舎暮らし考 [身辺雑記]

ビジネス雑誌が農業や田舎暮らしを特集する時代になった。変われば変わるものである。

長引く不況、年収の大幅ダウン、リストラ、ぎすぎすした社内の空気と人間関係、そこから逃避するように、癒しを求めるように、わずらわしい人間関係を断ち切るために、田舎暮らしを考えているとすれば、止めたほうがいい。

田舎の人間関係は都会より濃密で、それゆえトラブルを引き起こす確率は高い。
わずらわしい人間関係を断ち切りたければ、むしろ都心のど真ん中のマンションでひっそり暮らすことをお奨めする。死んだとしてもだれも気にかけてくれないから、煩わしさは感じないですむ。

田舎暮らしを楽しむのならば、あえてわずらわしい人間関係を楽しむくらいの覚悟と気持ちがなければならない。
周りの人とうまく接することが苦手な人は、都会に暮らそうが田舎で生活しようが所詮うまくいくはずがない。

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田舎暮らしを望む人の多くは自然の豊かさを強調する。
窓の外に広がる山や緑を眺めるだけなら、絵画やTV画面の自然を見るのとあまり変わらない。自然に囲まれたところで散歩を楽しむだけなら、皇居一周や、千鳥ヶ淵や北の丸公園の散策でも相当楽しめる。

山に入ってキノコ狩りがしたければ、千葉、埼玉、神奈川の手入れが行き届いていない雑木林を利用していろいろなキノコを自分で栽培することも可能だ。雑木林にはカブトムシ、クワガタの大型昆虫もいるし、大鷹や雉のような大型の鳥から小鳥までまだまだ数多く生息している。

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耕作放棄地は25%前後に達し、いまはまとまった農地を借りようと思えば借りられる環境にある。空き農地を利用して一家族には十分すぎるほどの野菜を収穫することは可能だ。

田舎暮らしを希望する人は多いが、それを実現している人はほんの一握りである。
希望と実現の乖離がはなはだしい状況は長らくつづいている。その原因の一つに距離的に遠い田舎を想定しているからだろう。
いくら目の前に豊かな自然が広がっていようと、主体的に能動的に自然との係わり合いをもたなければ、遠い田舎も身の回りの自然も大して違いはない。

「トコトコ農園」の周囲にはまだまだ豊かな自然が残っている。都心から1時間圏内で憧れの田舎暮らしを実践することが出来る。勤めていても週末田舎暮らしが実現できる。
ようは漠然と希望しているだけではなく、直ちにアクションを起さなければ、希望と実現の乖離はいつまでたっても埋まらない。

ブログ再開、本年もよろしくお願いします [身辺雑記]

関東地方の三が日は晴天が続き、いい正月でした。

元旦は近くの神社に初詣、午後からは天皇杯の決勝をTV観戦。
翌二日の正午は私の実家に兄弟夫婦が集まり新年の初顔合わせ。三日は基本的に家でゆっくり。

ほぼ毎年、正月の予定はこんな調子で、30年以上つづいてきました。
「継続は力なり」なんて解かったような解からないような言葉で自らを納得させてきました。

最近はとみに、昔のような正月気分が薄れてきました。うきうきした気分は加齢とともに薄れていきますが、やはり元旦からいろいろなお店が開きだした頃から、急速に正月気分が変化したのだろうと思います。

コンビニやスーパーがあいてなくて、少々不便でも時間が止まったような非日常性が正月らしさを演出していたのだろう。
昔は三が日の食事といえば朝から夜まで餅ばかり食べていました。餅とお節に飽きた頃あいに、食べるカレーが逆に新鮮でした。

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都内の道路から車の姿が激減し、空気が浄化され、すっきりした冬空だけが唯一、正月を実感させくれます。
実家付近から建設途中の「東京スカイツリー」がくっきり見えます。空気が澄んでいる証拠だ。


忘年会のはしご [身辺雑記]

世の中不況の真っ只中で師走の新橋でもサラリーマンの姿がグッと少なくなっている・・・らしい。

一年の大半を畑で過ごし、不況を体感する環境に程遠いところにいる。
都内に出かける回数はぐんと減った。その分都会から反対方向へ出かける回数はぐんと増えた。
世の中の流れに逆らうように、今年は忘年会の回数が昨年より増えた。12月の週末は忘年会の予定で手帳が早々に埋まってしまった。そのあおりを受けて、恒例の高校の忘年会は新年会へとシフトせざるをえなくなった。

昨晩は好都合というか、不幸にもとも言うべきか、都内で忘年会のはしごをする結果になった。5時前からは東久留米のT農業塾主催の忘年会。2時間飲み放題1本勝負で、開始30分で〆のうどんまでテーブルに置いていかれた。飲み物ラストオーダー以降は焼酎のお湯割り用のお湯すらオーダーストップに引っかかり、店員に拒否された。
拒否の理由はミネラル水を使っているから、飲み物オーダーの対象に入るのだという。

「水道水を沸かしたお湯でいいから」と食い下がると、ラストオーダーの時間厳守をたてに頑強に拒まれてしまった。マニュアル人間が増えたおかげで随分世の中窮屈になったものよ。

7時前に店を出て、二次会の誘いを丁重に断り、西武線の練馬で大江戸線に乗り換え、東中野に向かう。「シルクロード研究会」の事務所内で火鍋を食する忘年会である。

こちらはマニュアルなど一切ない、何でもありの自由な世界だ。
オジサン5人とかわゆいお姉さん5人の「フィーリングカップル5:5」である。<このギャグを理解できる人は確実にオジサンである>
まだ学生のIさんが対面に座り、火鍋越しにビールを頻繁に注いでくれる。右隣のOL、Oさんも負けじとビールを注いでくれる。

酒池肉林の世界である。飯島直子似の人妻もいて、彼女を眺めながら飲むビールもまた格別だ。多分、いやらしい目つきをしてたんだろうなと、帰宅して酔いがさめてから自己嫌悪に陥った。

忘年会のはしごは旧友のM氏と二人だったが、M氏はその前の昼にも蕎麦屋での句会の忘年会に参加していた。今日一日は忘年会を3回こなしたことになる。なんとも上手な御仁がいたもんだ。

「シルクロード研究会」は大学のゼミの後輩が主催している私的な会だ。だれでも参加できる。中国の西域は相変わらず政情不安が続き、敦煌の先にはいけそうもない。そこで来春は上海の奥への小旅行を考えているようだ。

飲食と歓談に夢中になり、デジカメを使うのを忘れていた。ということで今回は写真抜きで失礼しました。

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